中野 馨一が創る 外構、庭造りの現場

nakanoex.exblog.jp
ブログトップ

靖国神社で買ったクチナシ 吉松喜三大佐のこと

最近 アゲハチョウが飛んでいるな と 思ったら やはり青虫が居ました。新芽の柔らかいところからムシャムシャです。
e0037600_2042087.jpg

この クチナシは我が家にきてから7年?たちますか?
東京に行った折 時間が有ったので靖国によって 境内で買ってきました。

¥500入れたかな?境内に置いてある苗木にはこのようなストーリーがあります。
チョット我慢して読んでいただけると嬉しいです
半藤一利著より 引用です。

中国大陸で勇名を轟かせた吉松戦車連隊は「マルあ」(丸の中に「あ」の字を書く)部隊と呼ばれた、機動歩兵第三連隊の仮称である。
吉松喜三大佐は兵士の心が戦闘ですさんで行くことに心を痛めていた。そして、中国大陸は際限もない砂と黄色の土ばかりの大地。「戦争は破壊だけではない。日本軍の通るあとは草木も枯れる、などと言われるような人道にあらざることはしたくない」というのが大佐の信念であった。
大佐は、連隊に赴任すると、「植林を奨励する」命令を出した。「何だい?今度の連隊長は植木屋のせがれかい?」軍の命令にいちいち説明はない。はじめはぶつぶつと文句をいっていた兵たち。中国大陸の風土は日本と違って厳しい。日本式農法など役に立たない。樹一本植えるにもそれこそ悪戦苦闘。それだけにいっそう、将兵は苗木と一体となってつとめなければならなかった。そして、ある朝、明るい陽ざしのなか、あるかないかの若葉が苗木からふいてでているのを発見したとき、将兵は口々に万歳を叫んでしまった。あさ緑がまったく鮮やかであった。
包頭(ほうとう)の町に駐屯していた時など、中国人のために公園がつくられ、子供たちには動物園もできた。街路には、日本内地から送られてきた桜やポプラの並木ができた。乾いた黄土のなかで、将兵たちには新鮮なやわらかい精神が次第に形成されていった。敵軍との小ぜりあいは連日つづいていたが、ほとんど日本内地の風景と変わらなくなった包頭(ほうとう)付近の眺めは、苛酷な戦争の恐怖感から、将兵たちを救いあげていたことは確かであった。
蒙彊に北支に、部隊の通りすぎた後には、必ず木を植え、花を咲かせ、緑陰をつくることにつとめた。宣昌、安北、そして包頭へ、部隊は戦闘を休むことはあっても、植樹を休んだことは、一日たりともなかったのである。

昭和19年春、師団は河南作戦に転進することとなった。将兵は大声で部隊歌を歌いながら行軍した。隊歌は隊員から募集してつくられたものである。

  雪に嵐に打ち勝ちて
    四方にひろがる深緑
      西風いかにすさぶとも
        われに平和の木陰あり

洛陽の攻略戦は壮絶をきわめた。第四中隊長・西宮中尉は「ああ、安北の灯がみえる」とかすかに呟き息絶えた。
安北は、包頭地区警備の最前線にあり、部隊がもっとも長く駐屯した砂漠の町であった。隊員は住民と協力して街づくりに励んだ。まもなく緑の町に変わり、夕暮れ時には、ここが戦場かと思われるほど明るく静かな灯りに飾られるようになっていた。
西宮中尉の最後の言葉は、戦う将兵を力づけた。平和な町を建設するために彼らは戦うのである。今思えば矛盾した論理であろう。しかし、少なくとも彼らがすでに東洋鬼でなくなっていたことだけは確かなのである。
洛陽の攻略戦が終わると、戦闘集団は、植樹の平和集団に変わる。鉄砲をシャベルや鍬に持ち替えて「興亜植樹の歌」を合唱しながら、せっせと水をまき、種をまいた。 それが、実は、将兵たちの救いともなっていた。荒涼たるもののなかで、懸命に自分たちの心の泉を守りたかったのである。
「マルあ」部隊は負けることをしらなかった。昭和20年8月14日がきた時、吉松連隊長はじめ、全隊員は「降伏」ということを、はじめはどうしても信じることができなかった。
昭和21年2月、捕虜として道路修復工事についていた元吉松部隊の将兵を喜ばす朗報が、中共軍から届けられた。
元、敵将の劉峙(りゅうじ)上将から、直接、元・植松連隊長を指名して「植樹隊」の編成を命じてきたのである。
「ざまあみろ、敵の大将も、やっぱりオレたちのこと知ってたんだ」
なにが「ざまあみろ」なのかわからないが、隊長を中心に敗残の将兵たちは抱き合って喜んだ。そして互いに照れるほど涙を流した。
戦火で荒れた大地に青いものがそっと芽吹いている。道路工夫から植木屋に変わった彼らは、敗残の日本軍を代表するつもりで植樹をつづけた。
まもなく感謝状が吉松連隊長に届けられた。終戦で戦犯になった元将校の多い中で、敵将から「感謝状」をもらったのは、吉松喜三大佐ただひとりであろう。感謝状を届けてきた中共軍の将校は言った。
「実は、勲章を贈る話も出てて、ほとんど決まりかけていたのですが、日中国交の回復していない時に、勲章は考えものだということになって、残念ながらとりやめになったのです…」と。
この話が部下に伝わったとき、
「いらねえよ。金ピカの勲章なんかいらねえよ。隊長さんの勲章はこれだよ。この可愛らしく、ちょっと芽をだした柳の緑だ。これ以上の勲章があるものか」と彼らは言い合った。事実、亡国の将兵にとって、それが心の勲章であった。
昭和22年暮れ、吉松喜三氏は日本の土を踏んだ。氏は「死んだ部下の遺族と連絡を取り、いつか、必ず慰霊祭を行おう」とそれだけを考えて生きていた。
昭和28年春、友人にすすめられて上京。旧部下の消息の把握のためや、遺族扶助料問題や遺族の調査など日夜活動をつづけ、昭和30年春、ようやく初の慰霊祭を行うことができた。その日、靖国神社境内の隅に記念として桜の樹二本を植えた。
吉松氏は最初に鍬を入れた。境内の固くかためられた土を、さくッと、掘り起こすとき、氏は突然に中国大陸の包頭(ほうとう)の町を思い出した。宣昌の野戦病院での歌声を思い出した。自分の内部に、ゆっくりと時間をかけながら萌え出てくる何かを感じていた。それは吉松元連隊長が長いこと忘れていたものであった。
この時、靖国神社に奉納した桜樹二本、これが「緑の連隊長」にとって戦後植樹の出発となったのである。

吉松氏は思った---そうだ、戦没者をなぐさめるためにも、靖国神社の境内にある樹々の実から苗木を育て、それを遺族に送ろう、と神社の庶務課長に教えられて、とりあえず銀杏の実で試みることにした。銀杏は靖国の主木でもあり、樹齢も二百年を越すほど長く、しかも、天空にそびえる大樹ともなる。
吉松元連隊長の突撃が始まる。しかし、今度は味方が一人もいないのである。孤独な戦いであり、しかもなんら報酬もない。文字通り無駄な突撃になるかもしれない。しかし、元連隊長はひるまなかった。
神社当局の好意で、境内の一角の瓦礫の空地を借りることができ、さっそく整地にとりかかる。その一方で銀杏の実を拾わねばならない。34年秋のことである。たかが地に落ちている実ではあったが、それを拾うにはなかなか困難があった。拾って売り物にする、思いがけない敵がいたのである。
元、連隊長は中野から一番電車、午前四時七分発ででかけてくる。懐中電灯を頼りに、まだ明けやらぬ境内で、五回行って一千四百個の実を拾うことが出来た。

「ひとりぼっちで玉砂利を踏んで拾っていると、ふと、ひとつひとつの実が、国のために死んだ人たちの魂が宿っているような気がしましてね…この実を育てて大木にしたら、その木にその人たちの魂が戻ってきて、宿ってくれるのではないだろうか」
南海の孤島、海底、そして黄土に、ジャングルに、雪の広野にとり残されたままの遺骨はいったい、いつの日に日本に帰ってくるであろうか。戦争中、多くの遺族は「遺骨」を渡された。中身は英霊と書いた一枚の紙切れであることが多かった。
「…そう思うと、もしやこの銀杏の実や苗を、ふるさとの土地で育ててもらったら、これこそ遺骨の奉還になるのではないか…どんなに戦が惨列をきわめても、部下の遺骨を拾って遺族にお渡しするのは、指揮官としての私の義務ではないか…こんな風に考えてまいりますと、不意に希望と光明がどこからともなく湧いてきましてね…」語る老隊長の眼に、すーっと光るものが走る。

吉松氏の銀杏の実拾いは、その日からずーっと日課になった。くる日もくる日も。そしてくる年もくる年も。やがて慰霊植樹は日本内地から、沖縄、サイゴン、そして懐かしの地である中国の安北、包頭付近までひろがり、苗木が大切に保護されて送られていった。 それは、昭和37年春のことである。沖縄の忠霊塔のそばにまいた銀杏の実が、十個のうち七個までが芽を出し、今では15センチ以上に伸びている、という嬉しい便りが、吉松氏のもとに届けられたのは…。
前後して、中国の安北県公署からの一通の公文書を氏は受け取った。
「…その当時植えた樹の苗が、今ではすっかり大きくなって五メートルの高さに伸びて、青々たる並木になっている…」
吉松氏は読みながら、戦後初めて涙を流した。その一本一本には思い出があった。戦うためにあの地を黙々と歩いた。記憶にあるあの地は、荒涼とした一木一草もない黄土の累積だった。そこに緑が繁殖している。何とすばらしい景観ではないか。

「先日は、靖国神社で初めてお会いしましたあなた様より、いちょうの鉢植えをいただきまして、まことにありがとうございました。子供たちと話しましたところ、長く大切に育てるため「父の木」と命名いたし、この樹を父と思い、大切に大切にいたすことといたしました。これもみな、あなた様のお導きの賜物でございます…」
これは、ニューギニア兵団の慰霊に、子供たちがぜひ行けとあまりにすすめるので上京してきた、という、戦争未亡人からの礼状の一節である。

それにしても、と吉松氏は言う。
「それは苦しいことばかりでした。経済的にまいりかけたことがたびたびあります。正直いって、一銭にもならないのに…そう思って気分的に滅入ってしまいまして…でも、歯を食いしばって、続けてきました。それでよかった。銀杏だけだったのが、今は桜やとち、楓、すっかり園芸家になってしまいました。最近は神社のご好意で、一般の人にもお分けできるようにしていただきましたし…今ですか?苗木一本につき百円の志をいただいております。亡くなった方の霊をお慰めするつもりになっていただいて、百円だしていただくわけなのです。
こうして昨年は百万円近い金額が集まりました。その二割を靖国神社にお納めして、後は人件費、肥料、用意などに使いました。人件費というのは、私の給料、というか生活費。ハイ、やっと月に四万円ほどいただく身分になりました。」

「つい先日のことですがね。靖国…つまり国を平和に安らかにする、そうするにはどうすればいいか、そんなこと考えながら、じっと靖国という字を見ていたんです。そしたら、思わず笑ってしまいました。青を立てる、これが靖国なんですね。なんだ、自分のしてきたことでよかったのだ。笑いながら久しぶりに涙をこぼしました」
老隊長は、こう言って、じっと遠くを見た。昭和44年の7月14日。それは志を立ててから30年目の記念日になる。
そして、戦後の慰霊植樹を始めてから満十年。
毎年訪れる8月15日の終戦記念日には、多くの遺族が靖国の境内を埋める。その人たちに、この銀杏を、桜の苗を残らず差し上げよう。そして、カラになった苗圃に、また、今年の秋の実をまこう…そして20年もたてば、それらは日本中を平和な緑で飾るであろう。がー、
「私も74歳になりましたからね」と老隊長は笑うのである。その日まではとても生きてはいられない、というのである。

来年は咲かしてくれるでしょう。
[PR]
by nakanokeiichi | 2005-09-17 20:13 | 庭の出来事